ビートルズの名曲『ディア・プルーデンス』の誕生秘話

ヨガジャーナルアメリカ版の中で、西洋に東洋の瞑想を伝えた20世紀の音楽として、ビートルズの名曲「ディア・プルーデンス」の誕生秘話が紹介された。その曲は、昼夜を問わず瞑想を行っていたプルーデンスに、ジョンとポールが敬意を表して作ったものだった。以下はその記事からの抜粋。

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1966年10月、18歳だったプルーデンス・ファロー・ブランズは、ルルド(フランス)の「聖母出現の洞窟」にひざまずき、奇跡を祈った。なんとしてもインドのリシケーシュに行き、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの下で超越瞑想を学びたかったのだ。しかし、マハリシの学校で超越瞑想(TranscendentalMeditation:TM瞑想)の指導者養成講座を受講できたのは、24歳以上の者だけ。翌年、姉である女優のミア・ファローがマハリシのアシュラムに招かれると、プルーデンスは必死に付いて行こうとした。「まさに私の夢だったの!」プルーデンスは当時を振り返ってそう語った。

運命だったのだろうか、奇跡は起きた。1968年1月、プルーデンスは姉と一緒にヒマラヤ山麓の小さな町に向かうことができた。当時、このアシュラムには60人以上が滞在していた。

「マハリシが私たちに指導し始めたことのひとつが、あのように大勢で瞑想して、集合意識のなかに平和を送り込むことだったの」。51年以上にわたって超越瞑想の指導を行ってきて、最近72歳で引退したプルーデンスはこう語った。「私から見れば、今ヨガをしている人たちは私の子ども、孫、ひ孫のような存在で、この欧米の意識革命の未来そのものだわ。この革命は私たちから始まったけれど、皆さんが継承していくのね」

1967年:ビートルズ、マハリシと出会う

その頃、ビートルズのメンバーはより深い精神性を求めて、LSDなどの薬物の代わりに瞑想を始めた。ジョージ・ハリスンの妻パティー・ボイドが新聞で超越瞑想の広告を目にしたことがきっかけだった。その後起きたことはよく知られているとおり。その年、マハリシがロンドンを訪れてヒルトンホテルで講義を行った際には、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがそれぞれ妻と一緒に参加した。ビートルズの4人は、その講義に強烈に惹きつけられたあまり、翌日には全活動を中断、マハリシが開催した10日間の集会で超越瞑想を学ぶため、ウェールズのバンガーに向かって出発した。よく知られているとおり、4人は記者会見で薬物を断つことを誓った。

1968年2月:ビートルズ、マハリシのアシュラムに滞在する

ビートルズの4人とそれぞれの妻たちは、超越瞑想を学ぶためインドのリシケーシュに向かった。ほかにも、ハリウッドスター、ポップスやフォーク音楽のスターなど大勢の著名人がリシケーシュを目指した。リシケーシュには数百ものアシュラムや寺院があって、瞑想やヨガを本場で学んで聖なるガンジス川で沐浴しようとする人が大挙して訪れていたため、ヨガ発祥の地と呼ばれていた。

マハリシのアシュラムは、アメリカの慈善事業家、ドリス・デュークによる寄付金で建てられたもので、ガンジス川を見下ろす崖にあり密林に囲まれていた。マハリシは毎日最低8時間瞑想をすることを奨めていたが、アシュラムのいたるところに音楽があった。ビートルズはまわりに気を散らすものがない環境で、普段よりさらに多くの作品を生み出した。インド滞在中に数十曲を書いたと言われていて、そのほとんどが『White Album』に収録されている。

1968年11月22日:ビートルズ、『White Album』をリリース

この画期的な2枚組アルバムの2曲目「Dear Prudence」は、昼夜を問わず瞑想を行っていたプルーデンス・ファローに敬意を表して、マハリシのアシュラムで書かれた曲だ。ジョン・レノンは1980年のインタビューで、こんな話をしている。「プルーデンスは3週間閉じこもって、誰よりも先に神に通じようとしていたんだ」。プルーデンスも当時を回想して、意識を広げるために並外れた努力をしていたことをジョンが認めていてくれたと話している。

「私はジョージ(・ハリスン)のようだったわ。ほとんどの人が感じられないものや、存在することすら知らないものに人生を捧げていたの。そこには疑いのない純粋さがあるわ。あれは美しい曲よ。あの曲は私にとって、『White Album』のなかでリシケーシュの雰囲気を正確に捉えている唯一の曲だわ」。

ソース:ビートルズが超越瞑想を通して見つけたものとは
Photo by BERTRAND MORITZ on Unsplash

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