神の王国は、あなたの内側にある

あるときイエスは、神の国はいつ到来するのかと尋ねられた。神の国は人々が見たり指さしたりできるものではない、とイエスは答えた。そのとき、人々の心を打つ次の言葉が語られた。

「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカによる福音書・第17章21節)

このような表現で、イエスは、普遍的な、そして時を超えた教えを言葉に表したのである。あらゆる宗教・精神哲学・叡智の偉大な伝統をつぶさに調べてみると、私たちはそれと同じ教えを見つけだす。生命の究極の真理、生命の究極の宝は、私たちの内側にある、という教えである。

イエスが明快に示したように、私たちはこの内側の宝を体験することができるし、それよりも価値のある体験はほかにありえない。イエスは次にように宣言した。

「何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられるであろう。」(マタイによる福音書・第6章33節)

この生命の内側のレベルから、私たちは必要なすべてのものを得ることができる、とイエスは言っているのである。

この生命の内側に秘められた宝には、多くの名称が与えられてきた。プラトンはそれを「善と美」と呼び、アリストテレスは「存在」と呼び、プロティヌスは「無限」と呼び、クレールボーの聖バーナードは「神の言葉」と呼び、ラルフ・ウォルド・エマソンは「大霊」と呼んだ。道教では「タオ」と呼ばれ、ユダヤ教では「エーン・ソーフ」と呼ばれた。オーストラリアのアボリジニの間では「夢の時代」と呼ばれ、南アフリカの部族の間では「フンフ」あるいは「ウブントゥ」と呼ばれた。名称はさまざまに異なっていても、それらの名称が指し示している内側の本質はまった同じものなのである。

どの場合においても、この内側の超越的な本質は直接体験できると理解されている。この体験にも同じくさまざまな名称が与えられてきた。インドの伝統ではそれは「ヨーガ」と呼ばれ、仏教では「ニルヴァーナ」と呼ばれ、イスラム教では「ファーナー」と呼ばれ、キリスト教では「霊的な結婚」と呼ばれる。それは普遍的な真実と普遍的な体験に基づいた普遍的な教えなのである。

過去20世紀にわたってキリスト教の主要人物が、この内なる神の国について、また、それに関する彼らの個人的体験について、広範囲に文献を書き残している。この体験に関する部門はキリスト教史の中でも重要な流れを形成している。以下に挙げるのは、書き残された数多くの文献の中のごく一部からの抜粋である。

ニュッサの聖グレゴリウス(335年〜394年、トルコ)

初期のキリスト教神学者であったニュッサのグレゴリウスは、東方教会の四大教父の一人であり、現在のトルコ中央部にあたる地でニュッサの司教に任ぜられていた。

[魂は]、表層に現れたすべてのもの──五感で感じられるものだけでなく、理性で知り得ると思われるもの──から離れて、精神の働きによって、より深層へと入っていき、目には見えないもの、理性では知り得ないものの領域にまで到達し、そこにおいて神を見るのである。私たちの探し求めるものを真に見る、真に知るということは、正確には、それを理解することにあるのではなく、それはあらゆる認識を超えていると気づくことにある。[1]

聖アウグスティヌス(354年〜430年、アルジェリア)

人類の歴史に高くそびえる知的天才の一人とされる聖アウグスティヌスは、哲学、心理学、神学、歴史、政治理論、その他のテーマに関する1000以上の著作物を書き残している。次の一節の引用元である彼の著書『告白』は、約1600年にわたって人気と影響力を保ち続けている。

 

St-Augustine


私は自己の最深部に入っていった。…… そこに入ったとき、自らの魂の目で見たものは、私のその魂の目より高いところで、私の心より高いところで、輝いている不変の光であった。…… 真理を知る者はその光を知っている。その光を知る者は永遠を知っている。愛はそれを知っている。永遠の真理よ、まことの愛よ、いとおしい永遠よ![2]

私はしばしばこの体験をする。その体験の中に楽しみを見いだし、そして、必要な義務から離れてくつろいでもよいときには、いつも私はこの楽しみに浸るのである。[私が体験している]この感覚の状態は、常日頃慣れているどんなものともまったく異なっている。その状態に永久にとどまることができさえすれば、その甘美な楽しみは、この世のものとは思えないほどの、この一生で味わえるとは思えないほどのものになるであろう。だが私が背負っている悲しい重荷は、私をその状態から引き戻してしまい、私はいつもの日常の中に飲み込まれてしまうのだ。[3]

大聖グレゴリウス(540年〜604年、イタリア)

グレゴリウスは、地位の高いローマ人の家に生まれ、莫大な財産を相続したが、僧侶になる決意をした。50歳で法王になった後、彼は社会的大義の活動に専心し、それを実行した最初の法王として特に知られている。彼はミサの改革を行い、今日グレゴリオ聖歌として知られる典礼歌を取り入れた。神学者としても著名である。次の一節の引用元である彼の著書『労働における倫理』は、数百年にわたって宗教的思想に影響を与えて続けている。

 

St-Gregory-Great


選ばれし者の心は……、しばしば天国の観想の甘美さに我を忘れる。その心はすでに、奥深くに秘められた真実、言うなれば霧の向こうにある真実をいくらかは知っている。…… その者の心は、理解の及ばない「光」の味わいを糧とするようになり、自己を超えたところへと運ばれていき、元のところに戻って自己に沈みこむことを拒むのである。……

時として魂は内側の稀なる甘美を味わうのを許され、そして、輝きを放つ霊により息を吹きかけられるとき、突如として何らかの形で再生を遂げる。…

どのような形であれ、これが起こるときには、心は、恍惚とした安心感のようなものに溶け込み、自己を超えたところへと運ばれ、そして今のこの生命は存在をやめてしまったかのようになり、いわば何か新たなものへと創り変えられる[何か新しい存在によって再生させられる]のである…。そこで心は、汲めども尽きぬ泉から天国のしずくを注ぎかけられるのだ。[4]

ヨハネス・タウラー(1300年〜1361年、フランス)

ヨハネス・タウラーは、1300年代で最も大きな影響を及ぼしたドイツ神秘思想の著述家の一人である。マルティン・ルターは最高の影響力をもつ人物としてタウラーに敬意を払い、以来ずっとタウラーは宗教的思想に深い影響を与えている。「タウラーはキリスト教の伝統を最も純粋な形で伝えている」と、ある学者は評している。[5]

魂には時間や空間に影響されない隠された深淵があり、それはどんなものよりもはるかに優れていて、身体に生命と動きとを与えている。この崇高で不思議な場所、この秘密の領域に降りていくと、そこには、あの語り伝えられてきた至福の場がある。ここは魂の永遠の住み処だ。ここに至ったとき、人はとても穏やかになり、自己の本質に還る。心が一つに注がれ、活動から退いていく。純粋さが高まり、あらゆる事物からどんどん引き離されていく。…… このような魂の状態は、そこに至る以前の状態とは比べることもできないのだが、ひとたびそこに至れば、神聖な生命そのものの中でそれを味わうことが許されるのである。[6]

アヴィラの聖テレサ(1515年〜1582年、スペイン)

聖テレサは、ローマ・カトリック教会の生んだ最も偉大な女性の一人である。彼女の著書は最高傑作として認められている。聖テレサはカルメル会改革を開始し、それによってカルメル修道会は本来の観想的な性格を取り戻した。1970年、教会博士の称号が彼女に授与された。カトリック教会からその称号を授与されたのはわずかに33人であり、彼女はその最初の女性となった。

St-theresa-avila

私の魂はすぐに観想にふけり、そして静寂の状態もしくは歓喜の状態に入る。すると私の心身の機能は働きをやめ、感覚もなくなってしまう。

あらゆるものが静まりかえり、魂は静寂で深遠な大きな満足の状態に浸っている。[7]

この観想の中で、時折、幸福に満ちた内側の平安と静寂が湧き出してくる。そのとき魂は、自らの完全無欠を自覚する状態になっているからだ。言葉──祈りを唱えたり、黙想したりすること──でさえも、そのときの魂には煩わしいものになる。そのときの魂は愛する以外に何もしたくはないのだから。このような状態が続くのはしばしの間であるが、長い時間続くこともある。[8]

トーマス・マートン(1915年〜1969年、米国)

ニューヨークのコロンビア大学で英語の修士号を取得後、マートンは、ケンタッキーのゲッセマニ修道院に入会して修道士になった。のちに彼は司祭に叙階された。彼は、思想、詩、フィクション、エッセイなど15冊を超える著書を出版し、社会正義と平和を求める運動に参加した。彼は東洋の宗教、とりわけ禅に大きな関心を示した。それらの宗教は人間の意識の深みに光を当てているからである。修道院で隠遁生活を送りながら、彼は世界規模の影響を及ぼした。

次の一節でマートンは「観想」の体験について述べている。彼はその用語を、現在の意味(何かについて一心に考える)ではなく、もっと古い意味で使い、想念を超越した体験を表現している。

観想のとき私たちの魂には光が注ぎ込まれ、その光のもつ絶対の単純さと明瞭さよって、私たちは突如として新しい気づきのレベルに目覚める。そのとき私たちは、これまで想像さえしなかった領域に足を踏み入れているのだが、にもかかわらず、私たちはこの新しい世界に親しみを覚え、自明のものであるように感じる。それに対して、私たちの五感がとらえていた古い世界は、今や私たちにとって、不慣れで、遠く離れた、疑わしい世界のように思われるのである。……

私たちの存在の中心にある扉が開き、その扉を通って、私たちは果てしない深みへと降りていくのを感じる。そこには無限の深さがあるのだが、私たちは最も奥深いところにまで行くことができる。そしてひとたびこの穏やかで静かな深奥に触れることができれば、完全な不滅性が私たちのものになったように思われるのである。

そのときに、あなたたちは、ついに自分は本当に生まれたと感じるだろう。[9]

超越のためのテクニック

超越瞑想を実践している読者は、上で引用した各文章の中に超越──大海の波が静まるように心の活動が落ち着く自然な現象──の体験がはっきりと表現されていることに気づくだろう。意識はその最も静寂な状態、穏やかで枠のない状態に至る。すなわち、私たちは純粋な意識を体験する。そのとき私たちは、それが私たちの真の「自己」であり、それは時間と空間、有限と永遠を超えていることを悟るのである。

現在、私たちは、広範囲の科学的研究の結果から、超越瞑想中に、つまり超越を体験しているときに、脳機能が統合され、生理の活動が安定し、安らぎに満ちた機敏さという独特の状態(マハリシが超越意識と呼んだ第四の意識状態)を体験することを知っている。

さらにまた、これらの研究の結果、超越瞑想の規則的な実践により得られるこの超越の体験から、数え切れないほどの恩恵がもたらされることが詳細にわかっている。ストレスの軽減、幸福感の増大、自信の増大、知能や創造性の向上、職務の遂行能力と仕事に対する満足度の向上、健康の改善、バランスのとれた人格形成、人間関係の改善などであり、さらには私たちを取り巻く社会の中の平和と調和を増大させる効果さえも確認されている。「それに加えて、他のすべてがあなたに与えられるであろう。」という言葉のとおりに。……

マハリシはこのテクニックを次のように説明している。

超越瞑想とは、つまりは内側に入るための簡単なテクニックです。それをしたとき皆さんは内側に入っています。内側に入るのはとても簡単なことです。幸福がより大きくなる領域に向かおうとすることは、誰にとっても、とても自然なことです。

では、なぜそれは簡単なのでしょうか? いつも私はそれが簡単であることを強調しているので、このような質問をされます。内側の生命と外側の生命について語ったこれらのメッセージはすべて、目新しいものではなく、昔から伝えられてきた、内なる「神の国」についてのメッセージと同じものです。

「なによりもまず神の国を求めなさい。そうすれば、それに加えて、他のすべてのものが与えられるであろう」。それは何百年も昔から変わることなく伝えられてきたメッセージですが、現在そのメッセージが強調しているのは、それは誰にとっても簡単であるということです。人として生まれていれば、例外なく、誰でも、その人に属するすべての栄光──内側の世界のすべての栄光と外側の世界のすべての栄光──を楽しむ正当な権利を持っています。そして、ここに、すべての人が自らの力でそれを直接体験できる方法があります。[10]

原文・Craig Pearson, Ph.D.

参照文献
[1] Herbert Musurillo, From Glory to Glory (New York: Charles Scribner’s Sons, 1961), 118.
[2] The Confessions of St. Augustine, trans. Rex Warner (New York: New American Library, Mentor Books, 1963), 149.
[3] Warner, 247-248.
[4] Quoted in Cuthbert Butler, Western Mysticism  (New York: E.P. Dutton&Co., 1923), 105.
[5] Maria Shrady, “Introduction,” Johannes Tauler: Sermons, trans. Maria Shrady (New York: Paulist Press, 1985), xvi.
[6] Tauler: Sermons, 89–90.
[7] The Complete Works of St. Teresa of Jesus, trans. E. Allison Peers (1946; reprint, London: Sheed and Ward, 1978), 306–307.
[8] Teresa of Avila, Complete Works St. Teresa of Avila (London: Continuum International Publishing Group, 2002) 104. Also in St. Teresa of Avila, The Way of Perfection, trans. & ed. E. Allison Peers (Garden City, New York: Image Books, 1964, 328.
[9] Thomas Merton, New Seeds of Contemplation (1962; reprint, New York: New Directions, 1972), 226.
[10] Thirty Years Around the World: Dawn of the Age of Enlightenment (The Netherlands: MVU Press, 1986), 284-285.