「プラトン」という名前はニックネームであり、彼の本名はアリストクレスだった。
最初に彼をプラトン(「幅広い」を意味する)と呼んだのは、彼のレスリングの師匠であったらしい。その呼び名の由来は、彼の肩幅の広さ、もしくは彼のレスリングのスタイルを表したものだったのかもしれない。
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西洋哲学の父「プラトン」の歴史
プラトンは貴族の家に生まれ、彼の父親の系譜は初期のアテネの王にまで遡る。彼がソクラテスと出会い、献身的な弟子になったのは19歳の頃だった。
10年後にソクラテスが亡くなったあと、プラトンは地中海沿岸地域の旅行に出発した。10年余り続いた旅のあいだに、彼はイタリア、シシリー、キュレネ(現在のシリアにあったギリシアの植民都市)、エジプトを訪れ、哲学者や聖職者を探し求め、数学、哲学、天文学、宗教を学び、彼の初期の対話篇を創作した。
40歳の時にギリシアに戻ったプラトンは、そこでアカデミー(西洋で最初の大学)を創設した。プラトンの最も偉大な弟子であるアリストテレスが20年間学んだこの学園では、数学、哲学、自然科学、政治学が専門的に研究された。この学園は皇帝ユスティニアヌスにより閉鎖されるまで900年間存続した。
プラトンは、ソクラテス、アリストテレスと並んで、西洋文明の哲学的基礎を築いた人物である。西洋哲学の父と称されるプラトンは、彼が生きた時代以後の2300年間、すべての時代に影響を及ぼしてきた。
彼は「西洋思想の根本」、「世界最高の詩人の一人」、「2000年以上にわたって高潔な人々の模範となった優秀さの鑑」と称賛されてきた。
プラトンの主張する「根本的な生命の実体」は直接体験できるもの
プラトンの著作で扱われる論題は、政治学、科学、宗教、倫理学、芸術、人間の性質、愛など、多岐にわたっている。だがその核心にあるのは、私たちがふだん経験しているものを超えたところに、内在のあるいは根本的な生命の実体がある、というプラトンの主張であった。プラトンはこの実体を「善のイデア」や「美」と呼んだ。
プラトンにとって、善とは単なる知的な概念や理想ではなかった。それは直接体験できるものであった。そして、この体験をすることが人生で成し遂げうる最高の達成であった。彼はこの体験に関する素晴らしい説明を私たちに残している。
たとえば、次に挙げる『パイドン』の一節である。
しかし、[魂が]自分自身に還るとき、…… 別の世界、すなわち、純粋性・永遠性・不死性・不変性の領域に入っていく。それらの性質は魂と同族であるがゆえに、魂は常にそれらと共に生きる。魂が独存の状態になり、妨げを受けなくなったとき、魂はもはや道を踏み外すのをやめ、不変なるものと一体になり、その状態が常に不変となる。そして魂のこの状態こそが叡智と呼ばれるものなのだ。……
神的で、不死で、叡智的で、単一の形をもち、分解することなく、常に不変であるもの、そのようなものにこそ、魂は最もよく似ている。
──パイドン
意識の内側深くに入ると、不変の生命の領域を体験する
プラトンはこの体験について私たちに何を語っているのだろうか。明らかにそれは、外側の世界での感覚による認識が生み出す体験ではない。
それは、魂が「自分自身に還る」結果として──意識を内側に向ける結果として──起こっている体験なのだ。
プラトンが言っているのは、人は意識の内側深くに入ったとき、純粋な、永遠の、不死の、統一された、不変の生命の領域を体験する、ということだ。この状態をプラトンは「叡智」と呼んでいる。
『パイドロス』でもプラトンは同じ体験について語っている。
天よりもさらに上にあるこの領域について、地上の詩人がそれにふさわしく歌ったことはかつてなかったし、これから先もないであろう。だが、私はそれについて話してみよう。私が真理について話そうとするとき、真実ありのままを語る勇気をもたなければならないのだから。
この領域に位置を占めているもの、それは、真の知識が与っているところの存在そのもの──色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂の導き手である知性のみが観ることができる、かの本質である。理性と純粋な知識とによって育まれる神の知性は、また、自らに適した食物を摂取できるすべての魂の知性は、実体を目にして喜びに満たされ、そして天球の運動が一回りしてまた同じ場所に運ばれるまで、真なるものをさらに眺めながら、それによって奮い立ち、喜びを感じる。
その一回りするあいだに、魂は、正義と、節制と、絶対の知識を目にする。その知識とは、人間が存在物と呼んでいる、生成流転したり、相対的な関係におかれたりする性格のものではなく、絶対の存在の中にある絶対な知識なのである。魂はそのほかの真なるものも同じようにして眺め、それらを大いに楽しんでしまうと、再び天界の内側に入っていき、すみかへと還るのである。……
プラトンは生命の超越的な領域を、「色なく、形なく、触れることもできない本質」と説明している。彼はその領域の特色を「神の知性」「純粋な知識」「真理」「実体」「絶対の知識」と表現する。この内なる領域を体験する者は、「奮い立ち、喜びを感じる」。
プラトンには、この内なる体験をする能力を育成するテクニックがあったのだろうか?
どうやらそれはあったようなのだが、かなり厳しいものだったらしい。そのためには、数学、天文学、音楽、体育(レスリングではなかったようだ)を何年ものあいだ学び …… 道徳的な生活を送り …… 厳密な論証的討論を五年間積み重ね …… 国家への奉仕を長年続け …… そしてそのすべてをなし終えた後でのみ、少数の選ばれた者たちが、最終段階の知識を授けられる準備ができ、またそれに値する水準に達するのである。
超越瞑想の実践で、内なる体験を得ることができる
マハリシは、古代のヴェーダの知識の伝統から、「簡単で、自然で、努力のいらない方法」を世界にもたらした。それは誰でも簡単に習得でき、楽に実践できる方法であり、その実践を通して、何千年のあいだ賛美されてきたこの内なる体験を、誰でも得ることができる。これこそが超越瞑想のテクニックである。
「この世に生まれたすべての人は、生命の内なる宝庫、無限の創造性と知性の内なる大海、想念の源にある枠のない純粋な意識の領域を体験する天与の能力をもっている」とマハリシは教えた。
この領域のことを、マハリシは、「純粋な知識、パワー、至福の大海、宇宙そのものを維持している自然法則の根源」と表現した。
超越瞑想に関する何百もの科学的研究が行われ、この体験がすべての時代を通じて尊重されてきた理由が明らかになった。超越瞑想を規則的に実践すれば、脳機能が統合され、創造性と知能が高まり、健康が増進し、生命力が増大し、心の中に平安と幸福がもたらされる。
超越瞑想の影響力は非常に強大なので、都市の人口の1%だけでもこのテクニックを学べば、その都市全体の生活の質が改善される。その影響の一つの例は、犯罪や暴力の発生率が減少することである。
超越瞑想は世界中の何百万人の人々が学んでいる。社会のあらゆる階層の人々が、プラトンをはじめとする歴史上の多くの偉人たちが語ったことを体験している。
そして、この簡単で自然な体験を通して、彼らの人生は高まり、変容している。人々のあいだにこの体験がどんどん広まっている現在、どのような世界の到来を私たちは期待することができるだろうか。
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ディオティマの「最高の体験」
プラトンの思想に興味がある人のために、『饗宴』から有名な対話をもう一つ挙げておこう。
そこでは、ソクラテスが師と仰ぐマンティネィヤのディオティマという女性が、美の知覚にはさまざまな段階があるという話をし、最後にその最高の体験について語っている。
彼女が表現している内容と、先に示したプラトンの言葉が表現している内容との類似性に注目してほしい。
「[人は]美の大海へと乗り出してこれを眺めることにより、対話と観想の多くの美しい果実をこの上なく見事な形に生み出し、それらを哲学の豊かな収穫としていきます。そしてついには、彼は、そうして獲得した力と豊かさとをもって、これから述べようとする美に関係する唯一無類の知識を表現するまでになるのです」
「さて、どうかここからは」と彼女は続けた。「できるだけよく注意して私の話を聴いてください」
「ある者が正しく順序立った仕方でさまざまの美しいものを眺めつつ、愛の知識についてここまで教えを受けてきたのであれば、突如として彼は驚嘆すべき性質の美を観得するでしょう。それこそが、ソクラテス、最終的な目的であり、今までのあらゆる労苦も皆そのためであったのです」
「まず第一に、それは常に存在し、生ずることもなく、滅することもなく、増えることもなく、減ることもなく、次には、ある部分では美しく他の部分では醜いというものでもなく、時として美しく時として醜いということもなく、またある面では美しく他の面では醜いというものでもなく、またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、立場の違いに影響されるものでもありません」
「なおまたこの美は顔とか手とかその他の肉体に属するものを装って観者の前に現れることもなく、また特定の言説もしくは一片の知識という形をとるのでもなく……独立自存しつつ唯一無二の形を保って常に存在しているものでありましょう。また一方で、たくさん存在する美しいもの一切は、自らは生じたり滅したりしながらも、美そのものは少しも増したり減ったりせず、またなにものにも影響されない、そういう賢い仕方で美の性質を帯びるのです……」
「ついには、彼は美の本質を認識するまでになるのです。生命がその状態に到達したときにこそ、親愛なるソクラテスよ」とマンティネィヤの女性は言った。「つまり本質的な美を観るに至ったときにこそ、人生は生きる価値があることに人は気づくのです」
「ですが、答えてみてください。もし誰かが、幸いにも本質的な美を、すっかりと、純粋に、混じりけなしに …… 観ることができたとしたならば、どうなるでしょう? 神々しい美そのものを、その唯一無二の姿において観得したならば、その人はどんなふうに感じるでしょうか?」
「彼が触れるものは、幻影ではなく、真理なのです。ですから彼が真の徳を生み出してそれを育て上げたとき、彼は天の友愛を勝ち獲ることを運命づけられます。つまり彼はすべての人間を超えて不死の地位を得るのです」
プラトンは「美の大海」の直接体験について語っている。
それは永遠であり、「常に存在する」。それは決して変化せず、「増えることもなく、減ることもない」。
それはある特定のものとの関わりにおいて体験されるのではない、つまり、外側の世界にある何かや、何かについての「一片の知識」と同類のものではない。そうではなく、それは「唯一無二」であり、統一である。それは、「独立自存」しており、あらゆるものを超越しており、「生じたり滅したりする」が本質においては変化しないあらゆるものに滋養を与えている。
さらに、この状態に至ると、「人生は生きる価値があることに人は気づく」。
プラトンの言葉は、超越瞑想の体験を想起させる
ディオティマの言葉を通してプラトンが私たちに教えているのは次のことである。すなわち、この生命の内なる領域を体験することは、「神々しい美そのものを観得する」こと、つまり、幻影の世界を超えて「真理」を体験することである。そして、この体験をすることは、「真の徳」を得ることであり、「天の友愛を勝ち獲る」ことであり、「不死」になることである。
ここでもまたプラトンの言葉は、超越瞑想を実践する人々が慣れ親しんでいる超越の体験──心を内側へと向け、静寂な目覚めの状態に達すること──を想起させる。
超越を繰り返し体験していると、その人の心は次第にこの内なる領域に確立されるようになり、また、その人の神経系は次第にストレスが解消されていく。こうして長い間には、超越の場の体験がますます明瞭なものになっていくのである。
※本文中に挙げたプラトンの『饗宴』の引用は、タフツ大学のペルセウス・ディジタルライブラリーで公開されている英訳文から翻訳したものです。