超越瞑想の影響を科学的に調査した結果、心、体、行動、環境といった驚くほど広範囲な領域で効果が確認されている。さらに、こうした個々の成長に加えて、生命の全体的な成長が見られる。それは、啓発された深遠な体験──自由と自己実現だ。
ジャック・フォーラム氏は、彼の著書「Transcendental Meditation: The Essential Teachings of Maharishi Mahesh Yogi (超越瞑想:マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの教えの真髄)」のなかで、私たちの内側で起こる、この全体的な成長について考察している。以下は引用。
◆ ◆ ◆
内側と外側の自由
現代は、自由という言葉が、ますます頻繁に使われるようになってきている。政治家は、自由という言葉をひっきりなしに使っているし、マスコミも同じようなものだ。では、自由な人、自由な行動、自由な社会とは、どのようなものだろうか?
まず最初に、私たちは二種類の自由の違いを明確にすべきだろう。それは、生命の二つの側面である内側と外側に関係した自由である。
外側の自由とは、行動の自由にあたる。それを最も簡単な言葉で定義すると、自分のしたいことができるという意味だ。何者も、どんな状況も、彼らの願望とその達成を邪魔することはできない。どんな意見でも率直に表現することができる。ある場所から別の場所に自由に移動できる。……といった意味だ。こうした側面は、政治的あるいは社会的な自由と呼ばれる。
また、人々は社会の法によって管理されているが、それ以上に、その社会の意識レベルによっても管理されている。
より啓発された共同体や社会では、人々は広い心をもち、地球上で共に暮らす仲間の健康や幸福を気遣っている。そして、高いレベルの成就や幸福を生きている。そのような社会には、より大きな自由があるといえるだろう。
より制限された社会では、人々は、疑い、恐怖、怒り、嫌悪感、暴力、弱さによって動かされている。自由は存在するが、もっと少ない。古くからの真理として、「その人の内側にあるものが外側の行動に現れる」と言われている。つまり、「個々人の質が社会に現れる」ということだ。
マハリシは、このことを知っていたので、外側の自由の側面にはあまり注意を払わなかった。それよりも、すべての人に内側の自由をもたらすことにエネルギーを注いできた。つまり、無知の束縛からの自由をもたらそうとしていたのだ。無知とは、自分自身の本質や、その膨大な可能性について知らないことを意味する。個々人が限られた視野や否定的な感情に拘束されている限り、北に行こうが南に行こうが、ご飯を食べようがジャガイモを食べようが、たいした問題ではない。彼らには自由はなく、自分自身の未熟さの牢獄へと自分を押し込めている。彼らの未熟さとは、自分の理解、感情、行動を制限することだ。
自由と自己実現
社会心理学者、哲学者であるエーリッヒ・フロムは、著書「自由からの逃走」の中で、自由への鍵とは自己を実現することにあると述べている。「自己の実現は、人間の総合的な人格を実現することで達成される。その人の感情や理性の潜在力を生き生きと表すことで達成される。言い換えると、肯定的な自由は、統合された人格の自発的な活動によって形成される」と彼は記している。
フロムの見方は、マハリシが「超越瞑想(存在の科学と生きる技術)」の中で述べていることと完全に一致している。
「心が全潜在力を活かして機能せず、本来もっているはずのさまざまな能力を使用できないならば、心の自由は制限されてしまいます。したがって、心を真に解放しようとするならば、まず第一に大切なことは、心の潜在力を十分に開発することです。」
私たちの多くは、この原則の真理を受け入れるだろう。そして、自己実現の重要性を認識するに違いない。では、自己を実現するためには、いったいどうしたらよいのだろうか?
自分とは何か?
実のところ、自分とは何だろうか。私たちが認識したり知る必要のある自分とは何だろうか。それは、すべての手足や臓器をもつ体だろうか? 確かに体は、私たちの一部ではあるが、もっと奥深くに何かがあるに違いない。体が変化し、成長し、七年ごとに完全に新しくなったとしても、私たちのアイデンティティを維持するために、何かが存在し続けているはずだ。
自分とは、自分の考えだろうか、感情だろうか、記憶だろうか、願望だろうか、自分の好きなもの、嫌いなものだろうか? 確かに、それも自分ではある。しかし、これらは常に変化する。今日、私たちが大切にしているものが、明日には価値のないものに思えるかもしれない。私たちの気分や価値観は変化する。私たちの知覚は変化する。自分とは、このような常に変化する、安定しない、制限された心や体に過ぎないのだろうか。未発達の能力、未達成の願望など、そうした記憶や願望の集まりに過ぎないのだろうか。もし、それが自分であるなら、そのような自分を知ることで、どうして自由が得られるのだろうか。常に変化する時空間や因果関係によって拘束された自分、絶えず浮き沈みする、はかない生命の性質によって拘束された自分を実現することで、どうして自由になれるのだろうか。それは明らかに、内容の乏しい、制限された自由に違いない。
しかしもし、最も深いレベルにある自分の真の本質が、永遠で、変化することがないとしたら、知性、エネルギー、幸福が無限であるとしたら、どうなるのか。バガヴァッド・ギーターは、すべての人の本質である真の自分を「彼は決して生まれることもなく、死ぬこともない。」と説いている。
「彼は、生まれることもなく、永遠不滅で、太古から存在する。肉体が殺されたとしても、彼が殺されることはない。……これらの肉体には終わりがあると知られているが、肉体に宿るものは、永遠であり、不滅であり、無限である。……彼は永遠であり、すべてに浸透し、安定しており、不動であり、常に同じである。彼は形に現れておらず、想像を越えたものであり、変化しないものであると言われる。」
もし、これが、私たち自身の本質であるなら、どうなるのか。内深くにある真の自分は、自分の一部である絶えず変化する考え、感情、願望、記憶の集まり以上のものだとしたら、「自己実現」や「汝自身を知れ」という言葉は、全く新鮮で異なる意味をもち始めるだろう。自分は永遠で枠のないものであると知るとき、人は自由になる。生命の絶えず変化する側面で、何を体験しているときにも、安定性、平和、揺るぎない強さに確立されているなら、その人は自由になる。
もしあなたが、こうした体験をしているなら、単なる知的な理解を超えた最も深遠な感覚を通じて知識を得ることになるだろう。そして、何ものもあなたの自由を覆すことはなくなり、どのような状況にあっても、あなたは自分が自由であることを知るだろう。マハリシはこうした解放された状態を、高次意識と呼んでいる。そして、すべての人をこうした状態へと導くことが、超越瞑想の最高の目標なのだ。
「この至福により、大きな悲しみも小さな悲しみも、あらゆる悲しみの可能性が消えてなくなります。太陽の輝く光の中には、どんな暗闇も入り込めません。どんな悲しみも至福意識の中には入り込めませんし、また、至福意識が至福意識以上のものを得ることもありません。この自足の状態により、人は自分自身の中に安定し、永遠の満足に満たされます。──マハリシ」
恐怖からの自由
私がインタビューを行った人の多くは、超越瞑想を始めた後、不安や恐怖が減少したり、消えてなくなったと話している。そうした個人の体験は、多くの科学的研究によって実証されてきた。マハリシは、超越瞑想をわずかに実践するだけで、大きな恐怖から解放されると話している。当然のことだが、自由と恐怖は共存することはできないからだ。
恐怖は選択の余地を失わせ、実際的な評価や自発的な反応を妨げる。恐怖という心理的な警告音が体中に鳴り響くと、生理のバランスが乱れ、適切な反応ができなくなるのだ。よく知られた「戦うか逃げるか」の反応は、そのよい例だろう。私たちの選択は「戦うか逃げるか」の二つに狭められ、体の化学反応の奴隷となってしまう。
そして、恐怖が減少していくと、その瞬間の可能性を積極的に受け入れるようになり、自由度が増していく。「瞑想を始めてから、恐怖が薄らいできました。」とある若い男性は語っていた。「そして、人との付き合いが楽になりました。私は生まれつき内気な性格で、社会的な付き合いが苦手だったのですが、瞑想することで、そうした状況が日々改善されています。」
意識が成長するにつれて、真我(本当の自分)が少しずつ私たちの気づきのなかに増していく。そして最終的に、私たちは個人のエゴよりも偉大な、本当の地位を知ることになる。もし、自分が永遠で、不滅で、枠がないことを知るなら、その自分とは、私の体ではなく、私の意識である(体は時間と空間の限界に支配されているからだ)。こうした意識こそが、自分だと感じているものだ。そして、自分が永遠で、不滅で、枠がないことを知るとき、心配したり恐怖を感じることはなくなる。ここでもう一度話しておきたいことは、本当の自分を「知る」ことは、ただ考えたり強く信じることではなく、本当の自分を「体験する」ということだ。
マハリシは、このことを「バガヴァッドギーターの注釈」の中で詳しく解説している。ここでは、その代表的な一節を紹介しよう。
「超越瞑想によって至福意識の状態を得た心は、超越状態から活動の場に出てきたときにも、自然にその満足感を保ちます。この満足感は心の本質そのものに根ざしているものですから、心は喜びや苦しみの中にあっても動揺することがありません。また、世間における執着や恐れにも影響されません。」
間違いからの解放
多くの人は、四六時中、絶え間なく浮かんでくる想念の流れに気づいていない。特に、そうした想念の内容が、どれほど否定性に影響されているのか気づくこともなく、「仕事がいやだ。上司がいやだ。通勤がいやだ。」とか、「どうして人間関係がうまくいかないのだろう」「どうして、いつもこんな風に言ってしまうのだろう」と考えている。
そうした想念に気づかない限り、それに対してできることは何もない。そして、超越瞑想は内側の空間を開き始め、その空間の中で、私たちは想念の流れに気づき始める。自分はその想念ではなく、想念を目撃するものであることを知り始めるのだ。想念はやってきては去っていくが、私たちはそのままあり続け、その想念を観察することができる。想念がなくなった後でも、私はそこにとどまり続ける。そのような気づきは、自分の立ち位置を提供し、そこから私たちはある想念を退けて、別の想念を選択することができるのだ。例えば、「交通渋滞に不満を言ってもしかたがない。できることは何もない」という考えを追い払って、「ここで動けない間に、書く必要のある報告書の計画を立てよう」という考えを選択することもできる。言い換えると、暗闇の中に静かに座っている代わりに、心の中で続いている映画の中で、私たちは映画監督の役割を担うこともできるのだ。
こうした成長は望ましいものであり、それが真の自由を与えてくれる。次々と溢れ出る想念に対して、何もできない犠牲者となる代わりに、あらゆる無数の想念のたまり場から、何かもっと肯定的で、心を高め、有益なものを選びとることができるのだ。次々と溢れ出る想念は、私たちの心にとって有毒であるかもしれないし、後で後悔するような行動を引き起こす可能性もある。私たちは、そうした想念に対して、ただ反応するのではなく、もっと有益な形で対応できるようになってくるのだ。
心と体にストレスがたまってくると、それが土台となって否定的な考えや行動が生じてしまう。だからこそ、地道に瞑想を続けて、心と体をきれいにし、啓発された生命の状態へと目覚める必要がある。それによって、究極的な自由が得られるのだ。啓発された生命の状態では、肯定的な(生命を支援する進化的な)考えや行動が、努力なく自然に、自発的に生み出される。その状態へと向かって進むにつれて、自由という内側の「空間」(想念と想念とのあいだの間)は、もっと広がり、私たちの選択の自由は、もっと明確な、意義あるものとなっていく。
そして、超越することが、最も効率的にこうした自由を成長させる鍵となるのだ。