2012年にロックの殿堂入りを果たしたミュージシャン、ドノヴァンは、まだ無名の頃からビートルズのメンバーと親しい友人であり、彼らは一緒になって瞑想を学んだ。
ドノヴァンが英国のLiverpool Echoの取材のなかで、このビートルズとの交流について回想している。以下はその記事の抄訳。
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ドノヴァンは、ビートルズのメンバー全員の友人であり、彼らと共に精神的なものを求めてインドに旅したり、互いに助け合って曲を作っていた。
「僕らは、同じ風景の一部だったんだ」とドノヴァン(69才)は言う。「平和やすべての人に対する愛を歌にして、歌ったんだ。みんな、インドからやってきた音楽に興味津々で、その音の響きはホワイトアルバムや僕のレコードに影響を与えていた。その頃、ジョン、ジョージ、ポールから、シタールの演奏の仕方を教えてくれって頼まれたこともあった。他の誰もシタールを見たことがない時代に、ロンドンでシタールをもっていたのは唯一僕だけだったからね。」
「一緒に座って瞑想し、曲を作った。それは素晴らしい時間だったよ。」
「みんな1日に3曲ずつ作っていた」と彼は言う。「1日が過ぎても、3曲できなかったときは、調子が悪いときだった。」
「僕らはよく、ポールがピアノに向かったら、立ち上がる前に、歌を1曲作るだろうと言っていた。それくらい創造的な時期だったんだよ。歌はすでにそこにあった。大気中にね。僕らがそれを吸い込むのを、ただ待っているようだったんだ。」
ビートルズのメンバーにとって、ドノヴァンは同じロンドンに住む隣人だった。
「その当時、1966年から67年頃まで、彼らがとんでもなく有名になる前は、みんな近くに住んでいた」と優しく彼は言う。「ブライアン・エプスタインは、ビートルズが住むための家を買ったんだけど、小さな家だった。それは、彼らが大邸宅を手にする前の話だよ。
その頃はまだ、近所を歩き回ることができた。彼らは有名だったけど、気違いじみた有名さじゃなかったからね。それで、よく互いの家を行き来していた。
ある日、僕が作曲をしているときに、玄関のベルが鳴ったんだ。出て行くと、ポールがスーツ姿でネクタイもせずに、戸口に立っていた。首にギターをかけてね。彼は『何をしているんだい?』と僕に尋ねた。『歌を作っている』と答えると、『僕も歌を作っているんだ。入ってもいいかい?』と言って家に入ってきた。
そして、床に足を組んで座り、歌詞を書き始めた。それは1966年の春だったと思う。
『ドノヴァン、この曲の歌詞を作るのを手伝ってくれないかい?』と彼は言った。歌詞の一部が出てこなかったんだ。いつも、どこか一節が欠けていた。彼はそんな風に曲を作るのが好きだったんだよ。少し歌詞のない箇所があって、誰かがそれを埋めるまで、その曲は完成しなかった。あるときはリンゴだったり、地方公演マネージャーのマルが、それを完成させていたんだ。
『僕が生まれた町に、一人の船乗りが暮らしていた』と彼は歌い始めて、途中で止まった。僕は3年も年下で、彼らの弟みたいな感じだったから、『僕にはできないよ』って言ったんだ。それから、少し恥ずかしがり屋だった僕は、寝室に行って、いくつか歌詞を書いてみた。それから深呼吸をして、もとの部屋にもどって歌ったんだ。『青い空、緑の海、僕たちのイエローサブマリン』。彼は気に入って、その歌詞に決まったのさ。」
1968年2月に、ドノヴァンはビートルズと共にインドへと旅立った。そして、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのアシュラムで超越瞑想について学んだ。ビートルズのメンバーは、妻やガールフレンドと共に、ドノヴァンやビーチボーイズのマイク・ラブ、フルート奏者のポール・ホーンも誘ってインドにやってきた。
「それは、驚くほど素晴らしい時だった」とドノヴァンは語っている。「ジョン、ジョージ、ポールと多くの時間を過ごし、周りにクジャクが歩いているような屋外で、僕たちは曲を作ったんだ。ジョンは、僕が童謡を書くことが好きなのを知っていたから、一緒に彼の母親に捧げる曲「ジュリア」を作ったし、ジョージとは「ハーディ・ガーディ・マン」を一緒に作ったんだよ。それはうっとりするような魅力的な時間だった。」
ドノヴァンは、今でもポールやリンゴと連絡を取り合っているという。「みんな超越瞑想を支援していて、デヴィッド・リンチ財団のために活動している。僕らは今でも友達だよ。」
Source:Donovan: Why I went to India with The Beatles (BY JADE WRIGHT)