ジュリア・トゥルシ・バグノリさんは、ヨガと超越瞑想の教師です。彼女は、美しさ、優雅さ、至福を備えていて、そうした質が全く努力なく、彼女の精神性や肉体に表現されています。悟りへの道におけるヨガの役割や、瞑想しないとどう感じるのかについて、彼女から話を聞きました。
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瞑想を学ぶ
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──幼い頃に超越瞑想(略してTM)を学んだそうですが、その時のことを何か覚えていますか?
ジュリア:TMを学んだ日のことは、昨日のことのように覚えています! 「私も瞑想を学ぶことができるの?」と言って、お気に入りのパーティードレスを身につけ、お気に入りの果物を選びました。私の大好きな叔父さんが瞑想を教えてくれると聞いて、わくわくしたものです。廊下を歩いていくと、お線香の匂いがしたのを覚えています。部屋に入ると、そこにいた叔父さんが天使のように見えました。そして、マントラを教えてもらった瞬間、「ああ、家にもどってきた!」と感じました。
──4歳で、もう瞑想を学びたいと思っていたんですね。
ジュリア:瞑想はいつも私の人生の一部だったからです。私はヨギーの家庭に生まれた4代目の瞑想者です。母は私がお腹にいる間も毎日ヨガと瞑想を行っていましたし、私と一緒にベビーヨガもしてくれました。私の両親はとても幸せで、優しくて、思いやりに満ちていたので、両親がしていることなら何でもやってみたいと思ったのです。両親が瞑想しているのを見て、「私もできるかな?」と思っていました。
幼少期の最も古い記憶は何かと聞かれたら、アイオワ州フェアフィールドの瞑想ホールで、母の膝に座ってマハリシ(超越瞑想の創始者)の声を聞いていた記憶が最初に浮かびます。
普段の人は10歳で、正式なTMのテクニックを学びますが、私は両親がTMの先生だったので9歳半でTMを学ぶことができました。当時、母と私はハワイに住んでいましたが、TMを学べることが嬉しくて、「今日はハーフバースデー(9歳の誕生日から半年後)だけど、TMを学ぶことができるの?」と尋ねたのを覚えています。振り返ってみると、実際にはハーフバースデーの1か月前でしたが、座って瞑想できることにワクワクしました。
瞑想を失う
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──超越瞑想を規則的に実践していなかった時期はありますか?
ジュリア:短い期間でしたが、私の人生にも瞑想しなかった時期があります。10代の頃、アイオワ州からハワイに移り住んだ頃です。アイオワ州のマハリシ・スクールには70人のクラスメートがいて、私は彼らと一緒に育ったのですが、ハワイのマウイ島の高校には2,400人の生徒がいました。突然、新しい友達、海、サーフィン、ハイキング、レゲエの音楽にかこまれて、世界が大きく変わり、明るくなったのです。
私はそれらすべてを楽しんでいたのですが、数ヶ月したら、毎日の生活がしんどくなってきました。母に電話して「私は楽園に住んでいるのに、生活するのが大変だ!」と泣きつきました。
母から「最後に瞑想したのはいつ?」と聞かれたので、私はハッとして「後でまた電話するね」と答えました。
そして、座って瞑想しようとしたら、瞑想を始める前から笑いがこみ上げてきました。私は、果物や花だけを楽しんで、根に水をやるのを忘れた庭師のようでした! 私は馬鹿だったと思いましたが、瞑想を再開したときに、二度と瞑想を当たり前のこととは思わないだろうと感じました。
それが、自分の力でTMを再発見する過程の始まりでした。人は時々、自分が持っているものの大切さを思い出し、感謝するためにそのような旅に出なければなりません。そして、この経験は、私がたどるべき道筋の一部だったのです。それは、両親から瞑想を完全に受け取ることから始まり、次に内側にある平和を失った経験をし、最終的に「こうした経験も、すべてを楽しむために必要な経験だった!」と理解する過程の一部でした。
ヨガと超越瞑想
──どのようにして、ヨガはあなたの人生に欠かせないものになったのですか?
ジュリア:ヨガは、小さな頃からずっとやっていましたが、ハワイで自動車事故にあってから、真剣にヨガの実践に専念するようになりました。まるで奇跡のような話ですが、車は全壊したのに、私はほとんど無傷だったのです。しかし数週間後、首に痛みを感じ始めたので、母からアイオワに戻るようにと言われました。その翌週から、マハリシ国際大学(MIU)の授業が始まる予定だったので、母から入学を勧められたのです。
その時、私はハワイで海洋生物学を学び、海のサンゴ礁を救いたいと思っていました。でも母は「アイオワにもどって、体の養生をした方がいいから、半年間MIUに通ってみたら」と言ったのです。
私はすごく頑固だったので、「わかったわ。でも6カ月だけよ!」と言いました。
その間ずっと、「ここにいるのは一学期だけよ」と言い続けましたが、そのときのことを振り返ってみると「無知」ということが実際どのようなものだったがわかります。
実際には、1学年目の授業を取り、学位を取得し、2学年までそこにいました。そして、エヴァン・フィンケルスタイン教授による「存在の科学」の授業の中で、「人生に必要なものすべてがここにある!」と気づいたのです。それは、他に学ぶべきことはないという意味ではなく、ただこの知識と経験を統合することで、私たちが探している全てのものを見つけるができると実感したのです。
その授業の1つで、3つの図を使って、人生でやりたいこと、得意なこと、世界をどうやって助けることができるかを書き出す実習を行いました。私が書いた3つの円すべてが重なっているところに、ヨガと冒険と書かれていました。私は長い間、ヨガの実践を地道に続けてきたので、体についてよく理解していました。それは知的な理解ではなく、ヨガを優しく楽に行うことで、体に耳を傾ける方法を知っていたのです。
超越瞑想の教師になることも、私が目指していたもう一つの道でした。参加に必要とされる年齢よりも若かったのですが、応募して合格しました。数日以内にコースの参加費も集まって、これはとても運命的なことだと感じました。
また、ヨガを学ぶのは誰でもよかったわけではなく、伝統的な知識を受け継いだ先生から学びたいと思っていました。そこで、ヨガを実践する理由や、この手法がどこからやってきたのかを正しく理解している先生を探しに巡礼の旅に出ました。
精神的な豊かさ
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──インドを旅している間、インドの物質的な貧しさと精神的な豊かさの間で、とまどうことはありませんでしたか?
ジュリア:アメリカと比べて、インドにおける物質的な貧しさと精神的な豊かさの間には大きなコントラストがあります。私は自我のない所にいきつかなければなりませんでした。私には比べることも、判断することもできませんでした。それは微妙な違いです。なぜなら、あなたは簡単に悲しみの中に入り、その日の残りの時間、あの女性と子供は、いったいどこで寝るのだろうかと考えることになるからです。
ある時、ヒマラヤを歩いていて、小さな村を訪れたときのことです。そこに家の脇を段々畑にして暮らしている夫婦がいました。2階建ての日干しれんがの建物で、ドアもなく、垂れ下がった麻布と土間があるだけのシンプルな家でした。彼らはほとんど何の所有物も持たず、湿った土のベッドの上で寝ていました。
私たちのグループの一人が、その男性に「もし3つの願い事が叶うとしたら、何を願いますか?」と尋ねました。
彼はこう答えました。「私には願い事はありません。必要なものはすべて揃っているからです。今の生活に十分満足しています。私にはこの美しい山々の景色があり、家があり、可愛い妻がいて、食べ物があります。子供たちはこの村で育ち、大学に進学し、現在は都会で仕事をしています。私はとても満足していて、必要なものは何もありません。」
その答えに、私たちは考えさせられました。西洋で同じように感じている人を何人くらい知っているだろうか? 物質的な貧しさと豊かさ、精神的な貧しさと豊かさを、どうしたら比較できるだろうか? と思いました。
人生の200%を楽しむ
By the river Ganges, India. Photo: Mel Sauerbeck.
インドには、クリシュナが育ったと言われるヴリンダヴァンのような場所があり、そこに行くと、フェアフィールドの瞑想会場にいるような雰囲気がします。瞑想している間は誰とも話をしませんが、すべての人を一つに結びつける共通の糸があるのです。そのような共通の認識が、インドでは目に見える形で存在しています。
偉大な聖人ヴァシシュタの洞窟に足を踏み入れて、目を閉じると、時を超越した感覚に包まれます。5時間後、夜になって洞窟が閉じる時間になったとき、なぜこれ以上ここにいられないのかと不思議に思うほどです。
インドでは自然が助けてくれるので、もっと楽に、自分自身の自然な状態に立ち返ることができます。もっと簡単に引き戻されるのです。多くの人が何千年もの間、瞑想してきた場所に行くと、そこには静けさがあり、そのような場所が、実際にインド中にあります。
私たちは楽しむために、今ここに存在しています。物質的な豊かさと精神的な豊かさの両方を楽しむこと、それが人生の200%を楽しむということです。物質的な豊かさがない世界を、私たちは望んでいません。
また同時に、私たちは瞑想やヨガを教えることを通して、他の人を助けることができます。私たち全員が自分がどこから来て、どこへと向かっていくのかを思い出し、他の人が一歩一歩、右足を左足の前に置けるように助けてあげる必要があります。時々あなたも彼らと一緒にその暗闇に入り込みますが、それでも何かをささやくべきです。私がこのような視点を見つける上で、瞑想は本当に役立ちました。確かに、太陽や虹のある日は素晴らしいのですが、それだけが真実ではありません。
ラビンドラナート・タゴールの言葉のようにです。「私は眠り、人生が喜びであることを夢見た。私は目を覚まし、人生は奉仕であることに気づいた。私は行動した。そして見よ、奉仕は喜びであった。」
壁や覆いを取り払う
Photo: Ivan Ditscheiner.
──あなたは超越瞑想とヨガの両方を教えていますね。あなたにとって、この二つはどのように互いに補い合っているのでしょうか?
ジュリア:自分はじっとしていられないから瞑想は無理だとか、スピリチュアルな人間にはなりたくないと思っている人がいます。私たちは自分自身の内側に、たくさんの壁や覆いを作ることができます。それはちょうど、ルーミーの言葉のようにです。「あなたがなすべきことは、愛を探すことではなく、ただあなたの中で愛に背いて作り上げたすべての障壁をただ探し求め、見つけ出すことだ。」
瞑想はまさに、私たちをそこへと連れて行ってくれます。一滴の水が海へと戻っていくように、私たちは無邪気にそこへと滑り込みます。
しかし、準備ができていない人もいます。彼らをより深く引き寄せるためには、もう1つの魅力が必要です。ヨガは、肉体的な痛みや心の痛みなど、そのような障壁を取り除く良い方法です。現代の世界ではヨガの目的が見失われていますが、ヨガの本来の目的とは、心と体を整えて、瞑想の準備をすることです。
時々、ヨガは内側に火を付けることができます。「次に何が起こるのか?」「私はもっと欲しい!」という熱望を生み出すのです。
私のヨガのクラスには、エクササイズのためだけに参加する人もいますが、その効果を実感すると、「興味があるので、もう少し詳しく教えてほしい」と言い出します。
ですから、私にとってヨガは、それらの壁を取り払うための入り口です。内側の火を燃やして、「もっと多くを得たい」という渇望を得るための入り口なのです。準備ができさえすれば、人はいつでも近づいてきます。ですから、私はこのような様々なレベルで、ここにいたいのです。
ヨガも常に実践しています。私はいつも、生徒さんから学んでいると感じています。生徒さんが私から学ぶよりもずっと多くのものを得ているのです。生徒さんがもっと柔らかさを感じるように、私はもっと柔らかくなければなりません。彼らがもっと深いところに行けるように、私自身が深いところにいなければなりません。
超越瞑想を教えることは、間違いなく、私が他の人に与えることのできる最高のものであり、そのために、私は今ここにいると思います。誰かにTMを教えるたびに、私はただそこに座って、心の中で「ありがとう!」と言います。この知識の伝統の一員であることは大きな名誉と喜びであり、自分の人生で、それ以外のものを選ぶことはありません。
──超越瞑想を学びたいと思っている人へ、何か伝えたいメッセージはありますか?
ジュリア:もし自分の人生において、何か強く願っていることがあれば、まず最初に自分自身を知ることです。そうすれば、その願望は満たされます。私たちがすべき唯一のことは、自分を成長させることです。そうすれば、すべての願望は自動的に実現されるでしょう。
超越瞑想についてはこちら
ソース:Julia Tulsi Bagnoli: Yoga, meditation and feeling at home in India