超越瞑想は、自然な方法──心の本質に従って自動的に行われる

瞑想を学んだ人でも瞑想中の体験をうまく説明することができない。なぜなら、超越瞑想のやり方は、まったく努力が要らず、自然であるからだ。すべてが自動的であるため、自分が何かを行っていることすら意識することがない。この自然な方法によって純粋意識が体験され、多くの恩恵がもたらされている。

超越瞑想の創始者、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがテキサス州ヒューストンで行った講演で、このことについて触れている。以下は、その講演の一部。

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雲を取り除けば、太陽が現れる

マハリシ:苦しみとは、弱さから生じます。弱さがあるときに、苦しみが生じます。どんな種類の苦しみも、その人の弱さを示しています。それが感情的な弱さであろうと、知的な弱さであろうと、健康面の弱さであろうと、どんな弱さであろうとです。どんな弱さも、苦しみの原因となります。

超越瞑想を行い、意識が拡大するとき、純粋意識の成長を妨げる妨害は消えてなくなります。純粋意識の成長を妨げる妨害は、太陽を隠す雲のようなものです。太陽は輝いています。それはそこにあります。ただ、雲があるために、それが私たちと太陽との間の障害物となって、私たちは太陽を見ることができません。純粋意識はそこにあります。純粋知性はそこにあります。それはすでにそこにあります。純粋意識を育てる必要はありません。それを認識するのを妨げている障害物を取り除くだけでよいのです。日々の生活で純粋意識を完全に活用するのを妨げている障害物を取り除くだけでよいのです。そして、これらの障害物が、ストレスであり緊張です。

根に水を与えて、果実を楽しむ

心が、枠のない純粋意識、純粋知性の領域に開かれると同時に、体はストレスや緊張を失います。それによって、行動中に創造的知性を完全に活用するのを妨げてきた雲が消え始めます。

瞑想中、心の活動がより微かになるにつれて、呼吸はより微かになります。それと共に代謝率はより微かになり、より少なく、より少なくなります。そして身体のシステム全体が深い休息を得ます。この深い休息は、自動的に、ストレスや緊張を取り除きます。こうして、心が、枠のない純粋意識、純粋知性の領域に開かれるときに、体はストレスや緊張を失うのです。それによって、内なる創造的知性を完全に活用するのを妨げてきた雲が消え始めます。

体のシステムがより純粋になり、体がより純粋になり、心がより純粋になってきます。考えがはっきりとしてきます。それが、超越瞑想の実践の直接的な効果です。私たちの行動や願望のすべての価値が、より豊かになります。

TM運動で有名な一つの言葉があります。それは「根に水を与えて、果実を楽しみなさい」というものです。生命の根とは、純粋知性というあの根底にある価値です。純粋知性は、生命の基盤です。「根に水を与える」とは、私たちの意識を純粋知性に開くことです。そのとき、純粋知性の価値が心の本質にもたらされます。心がどこに向いていても、あの充満性の波を楽しむようになります。すべての活動、すべての考えは、幸福の波となり、喜びの波となります。心の本質に備わる純粋意識は、その構造も性質も至福です。純粋意識とは、至福意識です。

瞑想中、まったく努力がいらない

そうした至福意識は、私たちの生命に取り入れるだけの価値があるものです。友達に話すだけの価値があるものです。心配や不安を抱えた人に瞑想を教えることは、非常に大きな喜びであると瞑想の教師たちは話しています。わずか5分から10分の指導の後で、学んだ人たちは「どうもありがとうございます。瞑想がこんなに簡単だとは思いもしませんでした。」と言います。

世界の様々な場所で、多くの人が瞑想を学んだ次の日にこう尋ねます。

「瞑想はとても素晴らしく、とてもよい感じがしますが、私に何を教えてくれたのか、話していただけませんか?」

なぜなら、彼らは、瞑想中、どんな努力もしていなかったからです。全く努力していないのに、今日は、普段よりも早く目覚めて、とても新鮮で、日々の日課のあれこれに動揺することがありません。そうした効果が見られますが、彼らは実のところ、瞑想中に自分が何をしているのかわかっていないのです。瞑想が全く努力のいらないものであることはわかりました。なぜなら、彼らは、まったく努力なく、瞑想を行ったからです。そのような訳で、彼らは、その理由を知りたくてやってきます。

「瞑想中に私は何をしているのか、あなたが私に何を教えてくれたのか、話していただけませんか。」

超越瞑想は、非常に自然な方法です。私たち自身の本質に従って、自動的にそれは行われます。たとえ自分が何をしているのか知らなかったとしてもです。それくらい自然なものです。

この知識は、生命に対する完全な理解からもたらされました。生命には無数の枠があると同時に、あの枠のない側面があります。生命には、これら二つの質があります。一つは、相対的なもの、枠のあるもの、たくさんの違いがあるものです。そしてもう一つは、違いのないもの、非具象で、すべての違いの根底に横たわっているものです。すべての違いの原因となるものです。

そうした非具象の純粋知性の価値は、内側の想念の源にあり、それ自身を考えや行動の方向へと表現します。しかし、私たちの意識がそれに開かれない限り、その完全な価値を、私たちの考えや行動の中で楽しむことはできません。

瞑想と活動は、純粋知性を定着させる方法

人は目を閉じて、心を、粗大で多様な相対的な事物から引き離して、注意を、内側にある統一の状態へと向けます。この瞑想の内側への動きは、あの生命の根底にある価値に親しませます。瞑想の外側への動きは、行動の領域にその価値を引き出します。

超越瞑想のテクニックとは、そうした純粋知性の価値を知るためのものです。それを私たちの意識にもたらし、それを定着させて、日々の生活で完全に活用できるようにします。そして、純粋知性を定着させるための原則、そのレベルに至るための原則とは、努力しないということです。

純粋知性を定着させる原則は、ちょうど布を染める原則に似ています。白い布を黄色の染料に付けて、それを太陽にさらします。太陽にさらすと、布の色はあせてしまいますが、完全には色あせません。そして、それを再び染料につけて太陽にさらすと、色はあせますがいくらかは残ります。それと同じように、朝と夕方の瞑想は、心をあの枠のない意識の色に浸し、それを活動へとさらします。活動していると、それはだんだんと消えていきますが、完全には消えません。そして再び、枠のない状態の色に浸して、それから、太陽という枠のある状態にさらします。

このように、心を色づけて、それを消します。色をつけて、それを消します。瞑想し、活動します。これが、意識する心のレベルに、あの枠のない意識を定着させる方法です。そして、いったんそれが定着すれば、それは永遠に定着します。決して色あせることはありません。私たちが、どんな活動をしているときにも、常に、あの枠のない意識の状態に留まります。枠の中で振る舞っていても、私たちは枠のない状態を見失わなくなります。

銀行に行ってから市場に出る

このように二つの側面があります。瞑想とは、退くという側面です。目を閉じて、心を、粗大で多様な価値をもつ相対的な事物から引き離し、注意を内側の統一の状態へと向かわせます。この瞑想の内側への動きは、心を、生命のあの基本的な価値に親しませます。そして、瞑想の外側への動きは、その価値を活動の領域へと連れ出します。

私たちは、入っていき、出てきます。それはちょうど、銀行に行ってから、市場に出て行くようなものです。5分間銀行に行くことで、市場での一日は実りあるものとなります。それは価値あることです。もし誰かが「私は市場で、たくさんの人と会う約束があるから、銀行に行く時間がない」と言ったら、どうなるでしょうか。その人には忠告すべきです。市場におけるすべての約束は、5分間、銀行に行ったときにだけ、価値のある、喜び溢れる、実りあるものとなるからです。

誰かが「瞑想する時間がない」と言ったとします。それはつまり、彼には心を落ち着かせて、心を豊かにし、心を完全に生き生きとさせる時間がないということです。そのような状態では、彼は、非常に狭い知覚能力、決断能力、行動能力しかもたずに、活動の中に飛び込まなくてはなりません。それでは、大きな達成は得られないでしょう。

このテクニック、この知識は、その人の職業に関係なく、すべての人の人生にとって非常に重要なものです。