すべての生徒の能力を高め、人格を成長させる理想教育があるとしたら、それは今の教育とどこが違うだろうか? 勉強が退屈だという生徒に教師が一生懸命、知識を与えようとしても、彼は決して受け取ることができない。なぜなら知識よりもまず先に、彼自身の明瞭な意識が必要とされているからだ。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは、50年間に渡って意識に基づいた独自の教育法を提唱してきた。その教育法によれば、すべての生徒の意識は明瞭になり、広い視野と集中力が増し、知能指数の向上、高度な道徳観がもたらされるなど、理想教育を実現するための広範囲な効果がもたらされることが研究によって実証されている。この意識に基づいた教育の中心が、超越瞑想の実習である。今では、数千もの学校でカリキュラムのなかに取り入れられている。
以下の動画は、マハリシが「米国高等教育協会の全国集会」に招かれたときの講演であり、そのなかでマハリシは、知識を学ぶ上で重要なのは、知識を受け取るための器である、学生の意識を発達させることが第一であることを語っている。この講演は、1973年3月にテキサス州ヒューストンで行われた。
マハリシ:
「知識には二つの面があります。知識の主体面と知識の客体面です。現在の教育が提供しているのは、客体面についての知識です。そして現在の教育に欠けているものは、主体面についての知識、すなわち認識者についての知識です。
知識の流れの両側には二つの岸があります。一方の側の岸は、認識の対象であり、もう一方の側の岸は、認識者です。認識者と対象という二つの基準点があるのですが、第一の基準点となるのは認識者です。これは非常に重要なことです。なぜなら私たちは、知識は認識者の状態に応じて異なる、ということを知っているからです。心が鈍くなっているとき、つまり認識者がぼんやりした状態のときの知識は、その人がはっきり目覚めているときの知識とは異なります。同様に、知覚は異なり、知力は異なり、感情は異なります。
意識の状態が異なれば知識も異なります。それは疑う余地のないことです。私たちはそれを自身の経験から知っています。
教育が提供するものは、物質的な価値についての知識、すなわち、物理学、化学、生物学、天文学などです。さまざまな学科があり、生命のさまざまな分野に関する知識を提供します。そこで提供される知識はすべて正しいものであり、間違った知識はありません。ですが、そこで提供されていないのは、認識者についての知識です。
認識者についての知識が欠けているとき、つまり、認識者が自分自身について無知であるとき、知識の構造全体は、まるで基礎のない建物のようなものです。
知識の基礎とは、認識者の意識であり、つまるところ認識者です。しかし、認識者が暗闇の中にいると──認識者が自分自身を知らないと──知識の構造全体、知識の領域全体は基盤のないものになります。それはまったく明白なことです。このような基盤のない知識は、満足をもたらさないものでしかありません。
現在の教育が提供する知識は満足をもたらしません。その知識にはそれなりの立派な価値がありますが、それは生命の客体面の価値であり、生命の主体面での価値は欠けています。その知識を学んだ人は満足を得られませんが、それでも、教育の恩恵、知識の恩恵は、生命の客体面での進歩を推し進めます。ですから、教育の熟練の力が発揮されている分野では、進歩があり、満足があります。教育は、客体に関する知識を与えることには熟練しており、それゆえ客体の領域には進歩があります。しかしその教育は主体の領域には関与していません。そのため、主体の領域──認識者の領域──は知識の外に取り残されたままです。もうそろそろ私たちは、すべての学科の知識とともに認識者についての知識を提供すべき時期にきています。」
下の動画は、「意識に基づく教育」を提供している世界中の多くの学校の中から、いくつかの例を紹介している。それらの学校ではカリキュラムの一環として超越瞑想プログラムが毎日実習されている。