イラン平和プロジェクトに参加した私たち40人は、自分たちのことを自由の戦士と呼んでいました。私たちが勝ち取ろうとしているのは、幸福になるための自由、恐怖なしに生きる自由です。私たちの戦いは座って目を閉じた姿勢で行われます。混乱を調和に、無秩序を秩序に変えるために、私たちはイランへ派遣されました。
しかし、最初は、現地の混乱ぶりを目の当たりにして、私たちの任務はほとんど不可能のように思われました。私たちが現地に着いたとき、私たちを歓迎してくれたのは、私たちのホテルのすぐ近くのホテルが爆破される音と、街の十二の銀行が炎上する音でした。
そんな状況であったのですが、その中でやっていくしかありませんでした。私たちが静かに超越瞑想とTMシディプログラムを行っている間にも、ホテルの近くを戦車が何台もガタガタと音をたてて通り過ぎました。一日目の日が暮れて夜になったとき、私たちは次第に、自分は周りの混乱からは離れているのだという感じをもち始めました。
二日目になると、私たちは外側の状況にもかかわらず、非常に安心していられるようになりました。そして、三日目には、「無敵の質」がプロジェクトの参加者全員に浸透して、それが打ち消しがたいものとなりました。もはや恐れや不安はありません。心の中にはただ静寂と平安の強い流れがあるのみです。
四日目になると、私たちが内側で経験していた価値が外側に溢れ始めました。私たちのプロジェクトにまったく関係していない人たちでさえ、それに容易に気がつきました。太陽が出て来てきました。通りでは子供たちがまた遊び始め、兵士たちの姿はあまり見られなくなりました。店が開き始めました。私たちが到着して以来初めて、市場に人々が集まり始め、生き生きとした人々の声や、車のざわめきがまた町中に聞かれるようになりました。
国中に平和が行き渡りました。しかし誰もその理由を知りません。私たちの内側の経験がさらに深まっていくと、それが私たちの周りの秩序にも反映されました。戦車は姿を消し、市場が再開されました。国中の閉鎖されていた学校にも、再びイランの子供たちの元気な声が響き渡るようになりました。
私たちの成功の最も強力な証拠を挙げるとすると、それはおそらく「軍の日」に起こったことです。この日は国民軍の栄誉を称える日であり、兵士たちと武器のパレードが行われます。国王に反対する勢力はこの機会をとらえて、また血生臭い対決を起こすだろうと考えられていました。ところが、人々は通り過ぎる軍隊に花を投げ、その日イランでは銃の発砲がまったくなかったのです。
瞑想者たちが訪れた国では、どこでも平和が感じられました。ローデシアでは、瞑想者たちが到着した週から戦死者の数が減り始めて、一日平均16人であったのが3人になりました。農村部では2,000人の反徒たちが立場を変えたために、暫定政府は選挙を平和的に行うことができました。武器を差し出したゲリラたちを味方につけた黒人のリーダー、アベル・ムゾレワ司教はある集会で、「戦争で引き裂かれた私たちの社会にやっと平和が来た」と語りました。イランのBBC特派員も、何ヵ月も続いた極度な混乱の後の平穏な雰囲気はその原因が何であるか説明できない、と報告しました。
世界平和プロジェクトは1978年12月の最後の週で終りました。約1,400人の瞑想者たちを、長期に渡ってホテルに滞在させておいたので、資金の調達が問題になってきました。私たちは援助なしには、プロジェクトを継続するという重荷を負うことはできませんでした。イラン、ローデシア、ニカラグワなどにいたさまざまなグループは、やむなく引き上げました。私たちの影響で戦闘が止んだとすれば、私たちが引き上げたときには、また元に戻ってしまうのではないか、という心配がありました。
これは実際にいくつかの国で現実になりました。ローデシアでは、瞑想者が引き上げたとたんに、一日当りの戦死者数が3人から元の16人に跳ね上がってしまいました。レバノンでは、その地域担当の瞑想者たちのグループがイスラエルに到着したときに休戦が始まりました。その休戦は三カ月も続いて、血生臭い内乱の中での最も長い休戦の一つとなりました。ところが、一月にイスラエルのグループが解散すると、その休戦も崩壊して、戦争による死傷者の数は十月以前のレベルに逆戻りしてしまいました。
イランでは非常に危険な状況が予測されたので、四ヶ月間滞在した瞑想者たちは、軍隊の引き上げと同じように、調子を合わせて一斉に引き上げなくてはなりませんでした。マハリシは、私たちのグループがイランを離れるとすぐに、平和を創り出している効果も消滅するだろう、と言いました。したがって、瞑想者たちを同じ日に引き上げさせることが絶対に必要でした。そうしないと、後に残った小さなグループが、再び高まる暴力の波に飲み込まれてしまう恐れがあったからです。
瞑想者たちのグループは、テヘラン、イスファハン、タブリズ、シラズといったイランのあちこちの都市に散らばっていました。それらのグループを同じ日に引き上げさせるためには、南部のグループは飛行機でペルシア湾を越えてサウジアラビアに渡り、それと同時に、北部と中部のグループはテヘラン空港に飛んで、それからその両方のグループが同じ時間にアメリカに向けて飛び立つ、ということが必要でした。マハリシはこの作戦の重要性を強調し、私たちもすぐにその理由を理解しました。私たちが引き上げた四日後、国王は暴徒に追われてイランから逃げ出し、その混乱のただ中で、国外に追放されていたアヤトラ・ホメイニ師が帰国して権力の座に就いたのでした。
ここではっきりさせておくべき重要なことがあります。それは、私たちが訪れたどの国でも、私たちはまったく中立の立場をとっていたということです。イランの国王や中央アメリカの独裁者の政治について私たち個人が(あるいは新聞が)どんな意見を持っているかということは、問題ではありませんでした。
世界の不安定な地域では、さまざまな政権が現れては消えていきます。さまざまなイデオロギーが次々に交代していきます。私たちの関心は、集合意識に調和を創り出すことでした。どんな政府もそれが統治している人たちの集合意識の「純真な鏡」にすぎない、とマハリシは説明しています。もし、集合意識が緊張し混乱しているならば、政府の行動はそれを反映します。ですから、拡大マハリシ効果を通して集合意識に調和を創り出すことが、可能なかぎり速やかに暴力と苦しみを終らせ、どんな政府をも正しい善良な政府に変換する唯一の方法なのです。
このときの世界平和プロジェクトの効果については、国際紛争に関する最大のデータバンクである「紛争平和データバンク(COPDAB)」から十分な統計的データが得られました。COPDABの資料をもとに、世界平和プロジェクトの期間中10週間とその前の10週間とを比べると、紛争地域において敵対的行為の有意な減少(46.6%から29.5%)と協調的行為の有意な増加(36%から49.29%)が見られました。世界平和プロジェクトの10週間をそれ以前の10年間(1968年から1977年)の同時期と比較してみても、やはり、顕著により平和的であったことが分かりました。
たしかに、平和の効果は永続はしませんでした。この期間中、超越瞑想を実践している科学者のグループが、各国を回り、国家元首たちに拡大マハリシ効果の原理を説明し、このプロジェクトを支援するよう呼びかけました。しかし、政府の高官たちの多くは個人的には熱意を持って反応し、中にはTMを始める人さえいたのですが、その政府としては、資金を出してこのプロジェクトを支援するという道は選びませんでした。
しかしながら、科学的な研究データによって確認されたように、マハリシの世界平和プロジェクトの期間中には、世界中で統計的に有意な戦闘の減少が起こったのです。それは、単なる偶然としても、あるいはそれ以前からの政治的な傾向としても、説明することはできませんでした。
データによって確認されたのは、ヴェーダの意識の技術は、個々人のレベルで応用できるだけでなく、社会全体のレベルでも応用できる、ということです。ヴェーダの技術は、社会の集合意識の中に調和を創り出しました。これらの新しい技術は、意識の力によって世界平和を創造することができるということを実証したのです。
体験・ジョン・レビイ キース・ワレス著「瞑想の生理学」より
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